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東京地方裁判所 昭和61年(ワ)4632号 判決

原告 和田充弘

原告 和田直美

右両名訴訟代理人弁護士 吉岡寛

同 大嶋芳樹

被告 株式会社ホテルニューオータニ

右代表者代表取締役 大谷米一

右訴訟代理人弁護士 上條文雄

同 榎本精一

同 耕修二

同 井上壽雄

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実及び理由

第一請求

一  被告は、原告ら各自に対し、金三〇四四万一七四八円及びこれに対する昭和六〇年九月二二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、被告ホテル内の託児施設に預けられていた間に生じた生後四か月の乳幼児の死亡が託児施設の職員の過失によるとして、両親から左記の損害の賠償請求がされた事案で、死因、右職員の過失の有無等が争われた。

①  葬儀費(原告各自) 四五万円

②  子の逸失利益 三二〇四万二一七一円

③  慰藉料(原告各自) 一〇〇〇万円

④  弁護士費用(右合計の約一五%) 七九四万一三二五円

一  葉子の死亡(時刻を除き、当事者間に争いがない。時刻は、原告和田直美、証人板倉政子及び同松尾タエ子による。)

1 原告らは、被告ホテルにおいて挙式した夫婦で、被告から結婚一周年を記念して食事の招待を受けると共にベビールーム(託児施設)の無料利用券の送付を受け、昭和六〇年九月二二日、被告ホテルに赴いた。

2 原告和田直美は、同日午後六時二五分ころ、ベビールーム(名称「タイニータッツ」)の受付において利用を申し込み、原告らの長女葉子(昭和六〇年五月一九日生)を能城律子に預けた。ベビールームは、能城律子が被告ホテルから部屋を賃借して開設しているものである。

3 葉子は、しばらくベビールームの受付の奥で寝かされたのち、サンルームに移され、午後七時三〇分ないし四〇分ころ、ベビーベッドに俯せにされ、背中を手のひらで軽くたたかれているうちにおとなしくなった。

4 午後八時一〇分ないし一五分ころ、板倉政子(旧性「額賀」)が葉子を抱きかかえてミルクを飲ませようとしたところ、葉子は、ミルクを吸う力がなく、乳首を口に入れても全く吸わなかった。

5 午後八時一七分ないし二〇分ころ、原告直美が葉子を受け取りにベビールームの受付に赴いたところ、葉子の顔は真っ青で血の気がなく、その足は真っ白で全身がぐったりとしていた。葉子は、救急車で日大病院に運ばれたが、午後九時二五分ころ、死亡が確認された。

二  原告の主張

1 葉子は、死亡当日午後七時四〇分ころから同八時一〇分ころまでの間、ベッドの上に俯せに寝かされ、鼻口部の閉塞によって窒息死するに至った。

葉子は生後四か月で首の座りが不十分で俯せに寝かされた場合に首を動かして呼吸を確保する能力に欠けていたところ、ベビールームの職員らは、乳幼児の発育状況、特徴等を十分に把握して発育状況に応じた保護をし、又は絶えず乳幼児を観察し、異常を発見した場合は適切な処置を採るべき義務を負うにもかかわらず、これをしなかった。

2 葉子の死が窒息によるものと認められないとしても、葉子の死について、ベビールームの職員には左記の過失がある。

(一) 葉子は、生まれて初めて、長時間、俯せに寝かされ、このため平衡状態が崩れて急死した。ベビールームの職員は、乳幼児を預かるに当たり、その習慣、癖、寝かせる方法等について親から情報を収集し、これに従って児を扱うべきであるにもかかわらず、親から情報の収集をしなかった。

(二) ベビールームの職員は、預かった乳幼児の状態を観察して異常の早期発見に努め、異常を発見した場合はバイタルサインの点検、蘇生法の実施をした上、速やかに、医師、救急隊員に引き継ぐべきところ、葉子の容態の変化の発見が遅れ、また葉子が緊急を要する状態にあることが認識されず、救急隊員に引き継ぐまでの間、葉子について、呼吸、心音及び瞳孔の確認等のバイタルサインの点検、救命手段としての心肺蘇生法を試みることもしなかった。

3 ベビールームが、被告のホテル営業、飲食店営業の売上を伸ばすために設けられ、他のテナントとは異なる区域でホテルの客室を利用して営業し、原告に送付されたベビールームの利用券には被告の名のみが記載されているという事情に鑑みると、ベビールームにおける業務は、被告の指揮監督下に、被告の事業の執行としてされているものである。

三  原告の主張に対する被告の反論

1 葉子は首の座りも十分で、その死は、俯せに寝かされて窒息したことによるのではなく、乳幼児突然死症候群によるものである。

2 ベビールームの職員は、葉子を絶えず観察し、発育状態に応じた保護をし、容態急変後には適切な処置を採った。

3 ベビールームは能城律子が経営し、同人が職員を雇用しているもので、能城律子及びベビールームの職員は、被告の指揮監督下にはない。

四  争点

1 葉子の死は、窒息によるものであるか。

2 葉子の取扱い及び葉子の容態の急変時におけるベビールームの職員の対応に過失があるか。

3 ベビールームの営業は、被告の事業の執行としてされているものか。

第三争点に対する判断

一  葉子の死因

葉子の死は、窒息によるものと認めるには足りない。

1  葉子の窒息死の裏付けとなりうる事実

(一) 葉子は、七時三〇分ないし四〇分ころから八時一〇分ないし一五分ころまで、最大四五分間、ベビーベッドに俯せに寝かされていた(前記)。

(二) 昭和六〇年九月二二日午後六時二五分ころ、葉子をベビールームに預けた当時、葉子には、普段と変わった様子はなかった。

(三) 葉子が寝かされていたベッドの上には、マットレス、防水マット、シーツ、更にその上にバスタオルが敷かれていた。

(四) 葉子の解剖時の所見。

(1) 血液は暗赤紫色で流動性があり、肝臓、脾臓及び腎臓にうっ血、心外膜下及び肺肋膜下に溢血があるなど、急死の場合に現れる症状が認められた。

(2) 舌尖が上下の歯肉の間に少し出た、窒息の場合に比較的生じやすい症状を呈していた。

(3) 胸腺の発達が良く、リンパ体質で、外来の刺激に比較的抵抗が弱い。

(4) 鼻尖部の皮膚は、周囲部よりやや蒼白である。

(五) 昭和六〇年九月五日当時、葉子の首の座り(自力で頭部を動かし、又は固定する能力をいうものと解される。)について、診察した医師は首が座りかけていたと判断し、同月一七日当時、原告直美は首の座りについて懸念を表明し、医師も葉子の首の座りについて確定的な判断をするに至らず、原告直美は、葉子を抱くときは、横抱きにするか、縦に抱くときは後頭部を支えるようにしていた。

(六) 葉子の解剖に当たった青木医師は、葉子の死因について、葉子の寝ていたベッドが堅いという事実を聞き、当初、乳幼児突然死症候群と判定したものの、葉子の首が座っていないと聞いたのちは、窒息死の可能性を否定できないと判断するに至った。

2  葉子の窒息死を否定しうる事情

(一) 葉子は、分娩時の低酸素症に基づく筋緊張低下症に罹患してはおらず、生後一か月当時、体重は四〇〇〇グラム、身長五四センチメートル、頭囲三五センチメートル、生後三か月二八日当時、体重六七四五グラム、身長六五・四センチメートルで、順調に成育していた。

(二) 生後一か月の新生児であれば、分娩時の低酸素症に基づく筋緊張低下症等の特殊な病気のない限り、俯せに寝かされた場合でも、顔を左右に動かして呼吸を確保する能力がある。

(三) ベビールームにおいて葉子が寝かされていたベッドは、七キログラムの重量が負荷されると九ミリメートル沈む。

3  右1に認定したとおり、昭和六〇年九月二二日当時、葉子には普段と変わった様子はなく(前記1(二))、葉子の寝かされたベッドの上にはマットレス等の外にバスタオルが敷かれ(同(三))、葉子の解剖時の所見が急死の場合の症状(同(四)(1)参照)を呈していたほか、舌尖が上下の歯肉の間に少し出る窒息死の場合に生じやすい症状を呈し(同(2))、鼻尖部の皮膚が周囲部よりやや蒼白であった(同(4))。また、前記1(五)認定の事実によれば、葉子の首の座りは十分ではなかったものと認められる。これらの事実からすると、柔らかいバスタオルの上に顔を俯せに寝かされ、更にはこれに唾液が付着したことにより、葉子は呼吸が確保できなくなって窒息死したとの疑いを否定し去ることはできない。

しかしながら、一般に生後一か月の新生児でも、前記筋緊張低下症に罹患していない限り、俯せにすると顔を横にするなどして呼吸を確保することができるものであり(前記2(二)参照)、首の座りが十分でなかったものの、葉子は、順調に成育しており、右筋緊張低下症にも罹患していなかった。また、ベビールームのベッドは堅く、当時の葉子の全体重にほぼ等しい七キログラムの重量を負荷すると九ミリメートル沈む程度である(同(三))。右事実によれば、ベッド上に柔らかいバスタオルも敷かれていた事実及びこれに葉子の唾液が付着していた可能性を考慮しても、俯せに寝かされた葉子の頭部が呼吸の確保に影響を及ぼす程度に沈み込むとは考え難く、なんらかの事情により、俯せ状態の葉子が呼吸の確保に困難を生じても、首の座りが十分でないとはいえ、葉子の成育状況から、顔を動かすなどしてこれを確保することができたと推認できないではない。これらの点を考慮すると、未だ葉子が窒息死したと認めるには足りないという外なく、これを前提とする原告らの主張は、理由がない。

被告は、葉子の死因は乳幼児突然死症候群(それまでの健康状態及び既往歴からは全く予想できず、しかも剖検によってもその原因が不詳である乳幼児に突然の死をもたらした症候群)であると主張するが、その定義から明らかなように、右は、医学上は意味を有するとしても、法律上は、死因を特定することができないことを意味するにとどまり、葉子の死因が医学分類上乳幼児突然死症候群とされることから、直ちに被告が免責されるものではない。

二  ベビールームの職員の過失について

原告らは、乳幼児の葉子を預かるに当たり、親から情報の収集をしなかったこと、葉子の容態の変化の発見が遅れたこと、葉子が緊急を要する状態にあることの認識が遅れて適切な処置を採らなかったことについて、ベビールームの職員に過失があると主張する。

1  葉子のベビールームにおける状況等

(一) 午後六時二五分ころ、葉子を預かる際、能城律子は、原告直美から、葉子の使用するミルクの銘柄、哺乳瓶の種類及び授乳予定時刻を確認した。

(二) 午後七時ころ、酒井八千代(保母)は、葉子をベビールームの受付のある部屋(三五一号室)からサンルームに移した。サンルームには、当時、一七人から一八人の乳幼児がおり、これを四人の保母が保育していた。

(三) 板倉政子(保母)は、酒井八千代から葉子を受け取り、約三〇分間にわたって葉子を抱いていた。泣いていた葉子が眠そうな声になり、板倉政子はサンルームの出入口に最も近いベッドに葉子を仰向きに寝かせたが、泣き出したため、俯せに寝かせた。板倉政子が付き添っていると、葉子は、当初首を左右に動かしていたが、午後七時四五分ころ、右頬を下にして眠るに至った。

(四) 出入口付近には、受付のある三五一号室との連絡のためのインターホンが設置され、板倉政子は午後七時四五分から同八時ころまでの間に二回、インターホンで応答し、その際に様子を確認したところ、葉子は、右頬を下にして眠っていた。また、松尾タエ子(保母。看護婦として遇されているが、看護婦の資格は有しない。)も、二回確認したほか、インターホンに応答する際にも二回確認したが、葉子の様子に特に異常を認めなかった。

(五) 午後八時一〇分ないし一五分ころ、板倉政子がミルクを飲ませるために抱き上げると、葉子は青白い顔をして目をつぶっていた。異常を知った松尾タエ子が葉子を抱き、名を呼びながら揺すると、葉子は、一旦目を開いたものの、また目を閉じ、ミルクも飲もうとしなかった。松尾タエ子は、葉子の脈が不整であったため、胸を数回たたいた後、葉子を三五一号室に連れて行った。

(六) 能城律子は、連れて来られた葉子の様子から異常を知り、医師に連絡を試みたが果せず、救急車の手配をし、前記のとおり、葉子は、病院に運ばれたものの、死亡するに至った。

2  異常発見後のベビールームの職員の処置と過失の有無

右認定のとおり、異常に気付いた後、ベビールームの職員(板倉、松尾及び能城)は葉子の救命のための処置を採ってはいない(板倉は、松尾が葉子に心臓マッサージを実施したかのように供述するが、看護婦の資格を有しない松尾が葉子の救命のために有効な処置をしたと認めるには足りない。)が、救急車の手配をし、葉子を医師の手に委ねている。異常を発見したのちは、葉子を医師の手に委ねるのが最善の策であり、右職員が採った処置は、適切を欠いたものとは認められない。よって、葉子の異常を発見したのちのベビールームの職員の処置に過失があるということはできない。

3  職員が過失により葉子の容態の急変に気付くのが遅れたか。

前記1において認定したとおり、葉子が寝かされたいたベッドがサンルームと三五一号室との間の連絡のためのインターホンの近くに位置していた関係もあって、板倉及び松尾は、インターホンに応答する際をも含め、比較的頻繁に近くに寄って様子を見、葉子が眠っていることを確認したが、午後八時一〇分すぎ、授乳のために板倉が抱き上げた時には、葉子は既にミルクを飲むこともできなかった(右時刻ころまでの間に葉子に異常が生じたことを示す外形的な変化が現れたことを認めるに足りる証拠はない。)。右認定の事実によれば、ベビールームの職員は、葉子の様子を確認する点において欠けるところがあったとはいえず、葉子の容態の急変に気付くのが遅れたということもできない。

4  右職員が過失により原告直美から葉子に関する情報を得なかったか。

既に認定したとおり、葉子の使用するミルクの銘柄、授乳予定時刻等について能城律子が原告直美から情報を得ており、また、葉子の成育は順調で、預けられた当時葉子には格別異常もなかった。このような事情の下においては、葉子の保育上格別に配慮することを要する事情に関する情報は親である原告直美から告げるべく、それがない場合、ベビールームの職員らは、葉子につき、特別に配慮を要する点があるかどうかを原告らに確認する義務を負わず、したがって、葉子を他の乳幼児以上に格別の注意を払う義務を負うものではないと解するのが相当である。右の点に関する原告らの主張も理由がない。

三  以上のとおり、原告らの請求は、いずれも、その余の点について見るまでもなく、理由がない。

(裁判長裁判官 江見弘武 裁判官小島正夫及び同片田信宏は、転補のため、署名、押印することができない。裁判長裁判官 江見弘武)

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